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母のこと

あなたとの時間は、ほんとうにあっという間でした。

葛飾でまた一緒に住むようになって17年。大人になったはずの私でしたが、毎日顔を合わせるあなたがかけてくれる毎日の言葉に癒やされ、励まされてきました。

年を追うごとに呼吸が苦しくなり、明らかに衰えていくあなたを見て、また90歳を超えた父があなたの世話をすることにも限界を感じ、2年半前、私は定年を待たずに早期退職をし、自宅で開業しながら、あなたの生活を手伝うことにしました。
医者も見放すほど弱く生まれてきて、毎晩のように高熱を出す私を、その都度夜中に開けてくれるお医者に連れて行ってくれたあなたへの、恩返しのつもりだったのですが、どれだけ役に立ったのでしょう。

振り返れば母は努力の人でした。

母が産まれた、昭和9年の三河島界隈は水道が通っておらず、母たち姉妹で2キロ先の井戸まで、水を貰いに行くのが日課だったと聞いています。電気も乏しく、寒い冬でも街灯の下で読書をしたとも。
戦後も家が貧しかった母は、昼間は総理府統計局で和文タイピストとして働きながら、都立忍ヶ丘高校の定時制に通いました。
卒業後は運良く三菱石油に就職するものの、同期はお金持ちのお坊ちゃんお嬢さんばかりで、退勤後に一緒に遊びに行くことはできず、肩身が狭かったようです。

そんな母に大きな人生の転機がやってきたのは、父との結婚でした。
仲の良かった母の姉が、どこからつながったか、父を紹介してきたと聞いています。
戦前から続くプリント配線盤の会社経営者の末っ子で、明るく陽気で自由な性格の父と、慎重で一生懸命で努力家の母。
結婚前の昭和30年代、父はクレイジー・キャッツの前座ハワイアンバンドのギター担当、母は地味に会社から直帰する会社員。
そんな真逆な二人だったけど、姉は、父をひと目見た時から、母にぴったりだ!と確信したそうです。
そして二人は出会って半年で結婚します。
そんな姉は、子どもに恵まれなかったこともあり、私と妹を自分の子供のようにかわいがってくれました。しかし、残念ながら、もう30年近く前に若くして亡くなってしまっています。

昭和35年に結婚した二人が築いてきた家庭は、高度成長期という時代の追い風もあり、ほぼ順風満帆だったと言って良いでしょう。
それは持ち前の社交性と営業力で会社をどんどん大きくした父と、専業主婦としていつも帰れば笑顔で「おかえり」と言ってくれた母の、毎日の積み重ねだったことは間違いありません。
それでも母にとっては、毎日営業で帰りが遅く、土日となると接待ゴルフであまり家庭サービスのない父に、不満もあったようです。
老後には笑いながら話していましたが、当時の母にとっては二人の子供を抱えていっぱいいっぱいな毎日だったのでしょう。

父の退職後は、私たち子ども達も独立していたこともあり、母は趣味に熱中しました。
父の独身時代から好きだったウクレレに合わせて、母はフラダンスを習い、カルチャーセンターで教えるまでになっていました。
ほかにも、南京玉すだれ、住吉踊り、かっぽれ、さまざまな趣味に熱中しています。
この頃が、母の一番自由で幸せな時期だったように思います。

母の健康が不安定になってきたのは、60代なかば。
フラダンスを教えに横浜から津田沼に行くはずが、なぜか京王線の府中駅のホームで倒れていました。
脳梗塞でした。
母は、懸命にリハビリに励み、医者も驚くほど後遺症を最低限に抑え込みます。
しかしその後、心臓弁膜症を患い、動かなくなった心臓の弁の一つを取り替える手術をすることにもなりました。
また最近では慢性閉塞性肺疾患となり、酸素を鼻から送り込むボンベが欠かせない生活になります。
また、ここ数年は横隔膜も固くなり、肺の二酸化炭素を吐き出せず、毎日機器を使って出させざるを得ない生活へ。
年々、自由が効かない身体になることに、もどかしさを感じていたに違いありません。

そして、健康が不安定になって20年、この暖かい春の桜の散る日に、母は仲の良かった姉のもとに行くことになりました。
晩年は、治らない病気と闘いながらも、「専門のお医者さんに見てもらいたい」と諦めることはありませんでした。

私があなたから受けた恩恵は計り知ることができません。
それをいま、一つ一つを思い返しているところです。
子供の頃、泣き虫だった私は、泣く度に「泣くのは親か死んだときだけでいいのよ」と言われたものです。
いまがその時だよね。

僕は、あなたの思ったような息子にはなれなかったかもしれない。
だけど、僕はあなたの子で本当に良かった。

今、この文章を書きながら、心からそう思っている。